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環境めがねで見てみようVol.3 | 藤田 成吉さん

昔話「鶴女房」編

2011.4.8 UP

昔話の中には、自然と付き合う大切な知恵の数々がシンボリックに表現されたものが少なくありません。今回は、「鶴女房」を題材に、〈環境めがね〉をかけて、昔話に秘められた宝(知恵)探しをしていきましょう。

映画「夕鶴」でも有名な愛と別れの物語

二羽の鶴が鳴き交わし、翼を広げジャンプを繰り返しながら舞う優美な求愛ダンス。雌雄のつながりはどちらか一方が死ぬまで続くとか。昔話には珍しく「鶴女房」が私たちの哀しみを誘うのは、ひょっとしたら鶴たちのこんな生態が通奏低音のように響いているからかもしれませんね。木下順二の「夕鶴」でも有名な愛と別れの物語に“環境めがね”を持ち出すなんて野暮な話と言われそうですが、それを承知で読み解いてみましょう。

むかしむかしなあ、雪深い山里に住む貧しい一人暮らしの若者が、一羽の鶴が翼に矢を受けて苦しんでいるのを見つけて、矢を抜いて丁寧に介抱してやったんだと。それからしばらくして、ある夜のこと若者の雪に埋もれた粗末な家の戸をトントンと叩く音が。戸を開けると一人の美しい娘が立っていて「どうぞ、あなたの嫁ごにしてください」と言うもんだから、喜んで嫁ごにしたんだと・・・

娘は若者が助けた鶴だったわけですが、このように動物と人間とが夫婦になる昔話は「異類婚姻譚」と呼ばれています。他にも「狐女房」や「蛙女房」、「蛇婿入り」などがありますが、どの昔話でも動物が種も仕掛けも無しに自然に人間に変身してしまう。しかし、キリスト教の影響を反映した西欧の昔話ではこうはいかない。例えばグリム童話の「蛙の王さま」、池に沈んだ金の毬をすくい上げてお姫さまと結婚する蛙は魔女に魔法をかけられた王さま。チャイコフスキーが童話をもとに構想した歌劇「白鳥の湖」でも、ジークフリート王子が恋い焦がれた娘は悪魔ロットバルトによって白鳥に変身させられたオデット。悪魔や魔女の力で動物に変身させられたが、人間は人間、動物は動物。神の姿に似せてつくられた人間と動物とは本質的に違う存在である。ところが、日本の昔話の世界では人間も動物も深層においては同質な存在とみなされている。「動物⇄人間」のハードルが低いのは、万物にアニマ(霊魂)が宿るとするアニミズム(animism)的な自然観が読み取れるというわけです。

さて、ある日のこと嫁ごが「そんではこれから機(はた)を織るから、仕上がるまでけっして覗かないでおくれやい」と言ったんだと。見事に仕上がった織物を町に持っていくと、大金で売れる。鶴女房は恩返しと思って織ってあげたのに、金儲けに目が眩んだ若者はもう一枚、もう一枚織ってくれ、と。「夕鶴」では金儲けを企む村の男たちが若者(与ひょう)に「どんどん織らせるだ」とけしかける。与ひょうは「そんでもよ、布を織るたびにつう(鶴女房)がぐんと痩せるでよ」とためらう・・・

環境めがねで見ると、金儲けの手段として自然の恵みを貪(むさぼ)ることの報い、自然との共生の破たん(別れ)を予感させるシーンです。また、金儲けの話をしている与ひょうたちの話声がつうにはノイズとなって聴きとれなくなる。これは昔話「聴耳頭巾」(助けた狐がお礼にとくれた頭巾を被ると鳥たちの話声が聞こえるようになる)の、真逆というわけです。

“覗くな”のタブー(禁忌)が意味しているもの

そして、予感が現実へ。金儲けに囚われた若者は後生だからもう一枚だけ織ってくれと頼む。嫁ごは織っているところは決して見ないでくれと念を押し、部屋に閉じこもり機織りを始める。どうしてあんなに美しい布が織れるのか、若者は仕上がるのを待っている間にどうしても知りたくなってついに覗いてしまう。そこではやつれ果てた一羽の鶴が自分の羽を嘴(くちばし)で引き抜いては機にかけている。「わだしは、あんだに助けられた鶴でがす。姿を見られでは、帰らななんね」と言って、鶴の姿になると悲しそうに鳴きながら、少なくなった羽でやっと飛んでいったんだと・・・

破局に至るこのようなプロットは他の「異類婚姻譚」にも、また「ギリシャ神話」(冥界から連れ帰る時にタブーを犯して振り返り妻エウリュディケを失うオルフェウス)や「古事記」(禁忌を犯し死んで醜くなった姿を覗いてしまい妻イザナミの怒りを買って黄泉の国から逃げ帰るイザナキ)などにも見られます。

この“見るな”“覗くな”のタブー(禁忌)は何を意味しているのでしょうか。共通しているのは人間の“知りたい”という止みがたい欲求と、強度の禁忌を破った(知ってはならないことを知った)ために大切なものを失うこと。オルフェウスやイザナキの場合は〈この世=生〉と〈あの世=死〉の繋がりの喪失(死の認識)。では、鶴女房はどうでしょう。あまりにも人間的な金儲けという欲の延長線で「タブーを犯して見る」→「動物と人間の違いが分かる」→「動物と人間が分(別)かれる」と読めなくもない。つまり、見てはならないものを見る(知る)ことで動物と人間の表層の〈差異〉に呪縛されるようになり、生きとし生けるものにあまねく宿るアニマ(同質性)を見失ってしまう。これは鶴女房を〈手段=物〉として扱った報いです。そして、〈衰弱した鶴が飛び去る〉のは自然の恵みを喪失してしまうことをシンボリックに表現しているのではないでしょうか。

はてさて、少しく理屈っぽい話になってしまったようですね。でも「鶴女房」は繰り返すまでもなく儚(はかな)くも切ない愛の物語です、まるでこの歌のように。

遠くから飛び来て遠く去るものの一つか恋も首細き鶴も
松平盟子

無粋な環境めがねで読み解く「鶴女房」のおそまつ、これにてとっぴんぱらりんのぷう。

次号はちょっとマイナーですが、「鰻の娘」。請うご期待!

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  • 藤田 成吉(ふじた せいきち)
  • 藤田 成吉(ふじた せいきち)
  • 元東海大学教養学部人間環境学科教授。
    主な著書に『環境キーワードの冒険』(日報)、共著に『持続可能な社会のための環境学習』(培風館)、『地球市民の心と知恵』(中央法規)、『ビジネスと環境』(建帛社)などがある。(公社)日本アロマ環境協会(AEAJ)理事。