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環境めがねで見てみようVol.11 | 藤田 成吉さん

昔話「聴耳頭巾」編

2015.3.31 UP

昔話の中には、自然と付き合う大切な知恵の数々がシンボリックに表現されたものが少なくありません。最終回である11回目の題材は「聴耳頭巾」。〈環境めがね〉をかけて、昔話に秘められた宝(知恵)探しをしていきましょう。

~「昔話資本主義」のすすめ~

このコラムも最終回になりましたが、それにしても昔話って不思議な力を秘めていると思いませんか。ユング心理学の視点から昔話の分析に取り組んでおられた河合隼雄さんも「人間が古来からもっている『おはなし』は深い知恵を蔵しており、いろいろな考えを引き出す力をもっている」(※1)とおっしゃっています。理不尽な物語も<環境めがね>をかけて読むと、(中にはキツネにつままれたような気になった人がいるかもしれないけど)自然とどう付き合ったらよいか、その術(すべ)を教えてくれたりしますからね。
ところで、「資本」と言えばついグリード(強欲)な経済的資本概念を思い浮かべがちですが、近年では「社会関係資本」(Social Capital、信頼関係、規範、コミュニティ、協力行動、ネットワークなど)や「自然資本」(Natural Capital、大気、水、土壌をはじめ多様な生物を育む自然、生態系サービスの基盤など)も注目されるようになっています。
いま大雑把に「資本=(広義の)価値を生み出す元手」と定義すれば、昔話は様々な知恵という価値を産出する元手。というわけで「昔話資本主義」(Folktale Capitalism)の旗を掲げ(そんなの必要ないか)、様々な視点から昔話の蔵している多様な価値を増殖させていきたいものですね。

~小鳥の話し声が聞こえる「聴耳頭巾(ききみみずきん)」~

さて、昔話「聴耳頭巾」。聴いたことのある人も多いでしょうが、もう一度あらすじをおさらいしましょう。

昔むかし山里に住んでいるお爺さんが山に柴刈りに行くと、ケガをしたキツネに出会いました。お爺さんは可哀想に思い、傷の手当をしてあげました。暫くしてお爺さんが山に行くと、助けてあげたキツネがやって来てお礼にと頭巾をくれました。お爺さんがその頭巾を被ると、不思議なことに小鳥たちの話し声が聞こえてきました。
「村の庄屋の娘さんの病が手を尽くしても治らない。」
「それは庭に古くから生えている楠の根元に大きな石を置いたので、楠が苦しんでいるから。」
「その石をどけないと娘さんは治らないのにね。」
小鳥たちの話を聴いたお爺さんはさっそく庄屋の家に行き、石を他の所に動かすと娘は見るみるうちに元気になり、お爺さんは庄屋さんから沢山のお礼を貰いましたとさ。

この昔話は「動物報恩譚」の一つで、なかには病の癒えた娘と結婚するという話もありますけど、こちらのバージョンだと主役は若者。「異類婚姻譚」もそうですが、お爺さんだとちょっと想像しづらいですよね。ちなみに昔話の主役やわき役にお爺さんやお婆さん、子どもが多いのは、もうすぐあの世に往く老人やあの世からこの世にやって来たばかりの子どもは他界や異界との親和性が高く、様々な神々や自然現象、動物、植物と応答する力を秘めているかららしい。では分別のついた大人や若者はどうか。異なる(分化された)ものを結びつけるエロスの神に媒介されて、異類(動物)との婚姻(交感)が恢復されるってことかもしれませんね。

~キックキックトントン、狐の子~

この昔話ではキツネから呪宝(呪術的な効能を有する物)を贈られますが、キツネは古来から霊力を持つ動物とか、神の使いと見做されてきたとか。でも今では‘キツネうどん時々稲荷神社’ってところかもしれません。しかし、「聴耳頭巾」をはじめ昔話の世界ではしっかり主役や脇役を務めている。
たとえば少し前の新聞の、紙面3分の1を使った「まんが日本昔ばなし」の広告。1975年から1994年にわたり週1で放映されたテレビアニメの中から親しみやすい240話を選んでDVDに収録した、と書いてある。ではこの中で動物の名をタイトルにつけた昔話のベスト3は何だと思いますか。何度も数え直したので間違いないと思うけど、第1位はキツネの11話、第2位はタヌキの8話、第3位はネズミとサルの各5話で、キツネが堂々トップの座を占めてるってわけです。
また、殺されて稲荷神社に祀られる話、きつね女房やキツネの恩返し、キツネが化かす話や反対にキツネが化かされる話など様々。どうやらキツネは両義的(善と悪、人と動物、敵と味方、文化と自然など相反する性質を併せ持つ)キャラになっているようです。ちなみにこの両義性って、里山と里地の間に生息し薄明の黄昏時などに出没するキツネの、賢そうな、時にはワル賢そうな、どこかオーラを感じさせる官能的な姿に、自然がもたらす禍福と人の心の中で交錯する光と闇を投影したものなのかもしれません。

ところで、畑や野原や森の中で虹や月あかりからお話をもらってきたという宮沢賢治さんも、狐に思い入れが深かったみたいです。サル学者の河合雅雄さんによれば、劇も含む童話全作品127篇に登場する動物を全て洗い出すと(すごいことやるよね)、動物を主人公にした作品は35篇あり、その中でもトップは狐の5作品。また、全作品中に登場する動物のうち哺乳類の出現頻度で見ると馬の51回に続き狐が第2位の16回とか(※2)。
宮沢賢治さんの狐の童話と言えば「茨海小学校」や「土神ときつね」、「貝の火」などが思い浮かびますが、一押しはやっぱり「雪渡り」(※3)ですよね。冷たく凍って堅くなった雪の上を歩く二人の子ども四郎とかん子の足音「キックキックキック」と子狐の雪の上で足ぶみする音「キックキックトントン」。そして四郎とかん子が子狐と一緒に踊り出すと、この二つのオノマトペ(擬声音)は「キック、キック、トントン」とシンクロしはじめ、二人は招待された狐の幻燈会に喜んで出かけていく。この二つのオノマトペの間に、かん子が「狐の団子は兎(うさ)のくそ」と歌うと、子狐は笑いながら「私らは全体いままで人をだますなんてあんまり無実の罪をきせられていたのです。だまされたという人は大抵お酒に酔ったり、臆病でくるくるした人です」という会話も…。

そう、60年ほど前になるけど、‘キツネにだまされた’って話を夏休みに田舎に帰った時に私も聞いたことあります。 でもいつの頃からか、どうしてか、そんな話はとんと聞かなくなってしまいましたが、哲学者の内山節さんの見立てによれば1965年から。それ以降は、あれほどあったキツネにだまされたという話が日本の社会から発生しなくなる。それも全国ほぼ一斉に(※4)。では、なぜか。戦後の科学重視の普及による「迷信」などの否定、1950年代後半からの経済成長や開発に伴う環境破壊、農山村の過疎化やコミュニティの崩壊などなど。そして1960年代の中期から70年代中期にかけて水俣病や四日市ゼンソクなどの深刻な公害が社会問題化し、環境汚染や環境破壊が日本列島全域に拡大。つまりはキツネにはだまされなくなったものの、今度は「経済成長神話」や「科学技術神話」にだまされたって言えなくもない、かも。内山さんは、キツネにだまされる能力(生物世界の一員として自然と共鳴する感性)の必要性を述べておられますけど、しからば昔話に学ぶべきことも少なくない、ですよね。

~鳥に語りかけるフランチェスコ~

ところで、この世とあの世を天翔ける鳥たちも古来から神の使いと見なされていたようです。また昔話の「動物前生譚」の中には、‘聞きなし’といって鳥の鳴き声に人の言葉を聞いてその前生が語られるものがありますよね。
たとえば柳田國男さんの「遠野物語」(※5)にも、里と里山や奥山を往来する鳥たちの前生を語るこんな昔話が。「一緒に山に行った夫を見失い、オットーン、オットーンと呼びながら探し歩いているうちにオット鳥になった」とか「長者の奉公人が山に馬を放しに行き帰ろうとすると一匹足りない。馬を追うアーホー、アーホーという掛け声を挙げながら夜通し探しているうちに、アーホー、アーホーと啼く馬追い鳥になった」とか。 また、彼の「昔話と文学」(※6)には、‘鳥言葉の昔話’と題した節もあって聴耳頭巾のことや世界的な類話などが紹介されています。その中にはグリム童話集の「(通称)ローマ法王になった子供の話」というこんなメルヘンも…。

むかしスイスの殿様がバカな1人息子に業を煮やし、評判の高い先生のところに1年間修業に出す。帰ってきた息子に何を習ったかを問うと、イヌの言葉。怒って別の先生のところに出してやると、鳥の言葉。また次の年はカエルの言葉。殿様はついに息子を下人に殺させようとする。が、イヌやカエルに助けられながら逃れ、苦難の遍歴の末ローマに着くと、ちょうど法王が亡くなったところ。神の奇跡が臨む者がいれば、その者を後継者にすることに。たまたま会堂に入ったバカ息子の両肩に雪のように白い二羽のハトがとまる。で、法王に推挙されるが、どうしたものか。ハトにすすめられて法王に。聖書の言葉や説教を空で語らなければならないときは、二羽のハトが肩の上で法王の耳に聞かせてくれたという(※7)。

この童話で思い浮かべるのは、アッシジの聖フランチェスコの有名なエピソード、‘小鳥への説教’。彼がスポレートの山間地方で伝道の旅をしていたときのこと、小鳥たちが群れをなして集まっているところに近づくと、鳥たちは驚いて飛び立つ様子も見せない。彼は嬉しくなって小鳥たちに語りかける。「私の兄弟である小鳥さんも造り主に感謝しなければなりません。主はあなた方に羽根や飛ぶための翼を造り、撒くことも刈り入れることも心配のない暮らしを与えてくださっているのですから」。そして、小鳥たちはフランチェスコの説教を聞くと喜びを表すような仕草をしながら飛び立って行った、とか。
また、彼は深く自然を慈しみ、太陽や火、風、水、石、木、草なども兄弟姉妹と呼び、生き物だけでなく無生物にも語りかけたという(※8)。まるで‘アニミズム’や‘山川草木悉有仏性’を想起してしまいますよね。彼の生きた時代 (1182年~1226年)を考えると、人間中心主義のキリスト教界でよくまあ異端として糾弾されなかったと思ってしまいますけど、彼の私心の無いひたすらに誠実で清貧な信仰生活が疑心を払拭させたようです。
このように聖フランチェスコとグリム童話の無垢(イノセント)なバカ息子は鳥たちと話をしたり聞いたりできたわけですが、両者に共通している点を挙げるとその時代の価値観とか通念とかと大きくズレているところ、と言えますよね。
時代を経て20世紀後半になると、アッシジの聖フランチェスコはエコロジストを中心に再評価され、1979年には教皇ヨハネ・パウロ2世によって「環境保護の守護聖人」と宣せられています(※9)。あのその、なんというか敬虔なカトリック教徒の方には叱られるかもしれませんが、グリム童話の「三いろの言葉」〈KHM 33〉(※7)にも注目したいものですね。

~ ‘聴耳頭巾’とは「有機交流電話」のことかも?~

さて、ここまで環境めがねを掛けて散策してきましたが、改めて‘聴耳頭巾’とは何か。答か妄想か定かではないけれど、「聴耳頭巾とはキツネと小鳥という神(アニマ)のお使いが野山の空に張り巡らした‘有機交流電話’のことです」と言えないでしょうか。さしずめ頭巾そのものは受話器ってわけです。もっとも自然の荒廃が進みキツネも小鳥もいなく(住めなく)なったら、銅線や電波などの文明の利器とは異なった有機交流電線から聞こえてくるのは、ただノイズや重苦しい沈黙だけかもしれませんけどね。
ところで、皆さんはこれまでこんな恐ろしい話を聞いたことがありますか。

奥深くわけ入ったところに、ある町があった。…あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。…春がきたが、沈黙の春だった。いつもなら、コマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で夜は明ける。だが、いまはもの音一つしない。…でも、魔法にかけられたのでも、敵に襲われたわけでもない。すべては、人間が自ら招いた禍いだった(※10)。

種を明かす必要もないと思いますけど、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の第1章「明日のための寓話」。出版されたのは1962年。これは私たちがキツネにだまされなくなった数年前のことですが、あなたはいま、小鳥たちの声が聞こえていますか。

長いことお付き合いくださり、有り難うございます。ところで、人は知らず知らずのうちに常識とか通念のめがねを掛けて世界を見がちですが、少しは環境めがねにも慣れていただけましたでしょうか。
これからも時には環境めがねで世界を見て何かに気づき、時には環境カオリスタとしてアクションに繋げてくださったら嬉しいです。


※1 「おはなしの知恵」、河合隼雄、朝日文庫、2003年

※2 「サル学者の自然生活賛歌-森に還ろう-」、河合雅雄、小学館文庫、2006年

※3 「注文の多い料理店」、宮沢賢治、新潮文庫、1990年

※4 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」、内山 節、講談社現代新書、2007年

※5 「遠野物語」、柳田國男、角川ソフィア文庫、2004年

※6 「昔話と文学」、柳田國男、角川ソフィア文庫、2013年

※7 「完訳 グリム童話集Ⅰ」、金田鬼一訳、岩波文庫、1979年 なお、この童話のタイトルは「三いろの言葉」〈KHM 33〉です。

※8 「アッシジのフランチェスコ」、下川 勝、清水書院、2004年

※9 「自然の権利」、R.F.ナッシュ、松野弘訳、ちくま学芸文庫、1999年

※10 「沈黙の春」、レイチェル・カーソン、青樹簗一訳、新潮文庫、1974年

Prolile

  • 藤田 成吉(ふじた せいきち)
  • 藤田 成吉(ふじた せいきち)
  • 元東海大学教養学部人間環境学科教授。
    主な著書に『環境キーワードの冒険』(日報)、共著に『持続可能な社会のための環境学習』(培風館)、『地球市民の心と知恵』(中央法規)、『ビジネスと環境』(建帛社)などがある。(公社)日本アロマ環境協会(AEAJ)理事。